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  • 金融・保険業
メットライフ生命保険株式会社 坂井 修のインタビュー記事
坂井 修所長のプロフィール画像

群馬県全体の金融知識を高める活動を通して、人の人生を豊かにする一助になりたいと考えています。

メットライフ生命保険株式会社坂井 修さん 所長

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多様な人材とチームで取り組む営業スタイルと金融の話

――会社名と、現在の事業内容を教えていただいてもいいですか?

メットライフ生命保険株式会社です。
生命保険など金融商品を取り扱っておりまして、一生涯使える保障と貯蓄のご提案をしております。他にも、特に群馬県のいろんな学校に伺って、保険の提案とともに保険やお金の形を伝えることで、これからの人生選択のお役に立てるようなお話をさせていただいております。
その中で私は所長を務めていて、今は10名のメンバーと一緒に活動しております。

――その10人のメンバーは、どんな方たちなんですか?

本当にバラエティーに富んでいて、上は48歳、下は今29歳までおります。前職は他社の生命保険会社の方もいれば、ウォーターサーバーの営業、住宅関係、中には警察官だった方もおります。
社風としては、外資系のゴリゴリなイメージを持つ方もいるかと思うんですけど、どちらかというとアットホームなファミリーのような形でいると思います。

――皆さんのワークスタイルってどういう感じですか?やはり外回りが中心なんでしょうか。

そうですね。まずは朝、朝礼に来て、その後は、9時半過ぎにはみんな県内外に営業に行きます。業務が終われば、そのまま帰宅するメンバーがほとんどです。

――じゃあ朝だけ来て、そこからは皆さんがそれぞれ営業活動をされるんですね。具体的にどんな営業活動を行われているんですか?

そもそも保険が金融機関の一つだということや、保険が貯金に使えるということを知らない方が多いんです。まずは、保険をどう資産形成に結びつけられるかなどの基本的な情報提供から始まります。

――保険が金融機関だというのは、どういうことなんでしょうか?

金融機関、つまり金融庁管下の機関は3つありまして、1つめが銀行、2つめは証券会社、3つめが保険になります。それぞれ良いとこ悪いとこがあって、自分のお金をどこに預けてどう守ったり増やしたりするかがポイントです。
銀行の良いところは安心安全で、皆さんもお金を預けやすいと思いますが、デメリットとしましては低金利であることが言えます。保険はというと、万が一のために保証を持てるのが良いところ。一方で、何もなかったらそのままなくなる「掛け捨て」になってしまいます。では、その掛け捨てがもし戻るならば、それって貯金と一緒ですよね。さらにそこへ高金利がついて、数千倍、つまり銀行では10円だったものが1万円以上になって戻るのが保険の貯金なんです。

――数千倍ってすごいですね。日本だと保険屋さんは金融っていうイメージがあんまりないと思いますけど、海外とはどのような違いがあるのでしょうか?

今から120年くらい前、当時戦争で夫を亡くした未亡人の方たちが働くのに保険業は適していたので、女性が補償の話をするのが保険というイメージが定着したのだと思います。
海外では銀行や証券会社と同じように保険も金融の部類だという文化があります。なので、アメリカの小中学生に金融機関ってどこ?と言うと、「銀行と証券会社と保険会社だよ」と話します。

――なるほど…海外では保険は金融というのは当たり前の認識なんですね。

未経験の保険業を選んだ動機

――坂井さんはずっと保険業界なんですか?

私は5年前にこの業界に転職したんですけども、前職は群馬県内にあるIT関係の会社に勤めておりました。

――そうなんですか!それでもう今のポジションにいらっしゃるんですか!?

ええ、でもそれまで経理事務だったので、営業職なんてやったことないです(笑)。

――転職されたきっかけは何だったんですか?

その会社は大阪に営業所があって、当時そこに単身赴任を命じられていたんです。その時自分の父親が病気をしていたので、ずっと断っていたんですが、辞令が出てしまって行くか辞めるかのどっちかを迫られてたので、家族優先にしたいと思い、退職ということになりました。

――経理畑から営業畑。異職種な上になぜ保険業界を選んだんですか?

まず経理職もお金を扱う部署なので、昔から保険の知識も多少なりともあったんです。ちょうどその転職のタイミングで、がんで長患いしていた叔母が亡くなってしまって。
叔母は3年ぐらい入退院を繰り返していたんですけど、お見舞いに行くたびに「修、保険は大事だからな。ちゃんとしないとダメだぞ」と何回も言われたんです。叔母はずっと元気で、保険料が高くなるので途中でやめてしまって。その後がんに罹ったので、無保険で闘病生活をしなければならない状況でした。それを間近で見ていましたし、叔母と叔父が一緒にやっていたちっちゃい街の食堂も、叔母が亡くなった後そのまま潰れてしまったという非常に悲惨な目を見たので、自分の力でそんな人たちを一人でも減らしたいと思い、保険業に興味を持ちました。

――数ある保険会社の中で、メットライフを選んだ理由というのは何かあったんですか?

メットライフには「老後を変える」という会社のキャッチコピーがあります。日本は寿命が100歳に迫る勢いの長寿大国なんですけれども、いわゆる「老後2,000万問題」を抱えている国でもあります。同じ外資系の会社も色々ありますが、メットライフで皆さんの保障と老後を変えるっていうところに共感して、この会社だ!と思って飛び込みました。

苦境を乗り越えたのは自身の覚悟と仲間の存在があったから

――実際に入社されてその後どうでしたか?

前職が300人ほどいる会社だったので、まずそこで保険の話をしてみて、指示を頂いて一つ一つ変えていこうかと思ってましたが、もう箸にも棒にもかからない状態でした。仲の良かった元社員の人にも保険の話を聞いてくださいと言うと、「保険はもう入っているからいいよ」と門前払いな状態がずっと続き、3、4か月経っても成績が上がらず、クビになりそうな大ピンチな時期もありました。

――そのときってかなりお辛かったんじゃないですか?

そうですね…。45歳で転職するときに、もしうまくいかなかったらもうこの世から旅立って、家族にはそれこそ保険を残そう、くらいの覚悟でこの業界に来たんです。大変なのはわかっていたんですけれども、そこをどうにか変えたかったんです。
自分自身ではどうにも解決できなかったので、もう背に腹は変えられず、メットライフの全国ランキングに1位から100位までの名前が出ているので、上から順にお電話をかけて、どうやって売ればいいですか、どういう話をしていますか、と一人一人聞いてみたんです。さすがに「忙しいんだ」ガチャ、「誰だお前」ガチャ、と対応されることもありました。でもめげずにいろんな人から話を聞いていくと、伝える内容は似ていることに気がついて、一つ一つ書き出していって台本化したんです。台本化することで、漏れずにお客さんに伝えることができるようになって、そこからどうにかV字回復して、仕事が進められるようになりました。

――その後は順調に、今まで来られているんでしょうか?

ええ、折れてしまう時もありましたが、幸いにして入社同期のメンバーが非常に支えになってくれました。つらいこと・良かったことを共感し合える同じ境遇の仲間が全国に16人いたんです。特に、某強豪大学のサッカー部で副キャプテンをやっていた、自分よりも2まわりくらい若い体育会系の子と非常に話が合いました。その彼もくじけそうになると電話をもらって、お互いに励まし合っていました。今でも良かったこと・悪かったことを伝えて、励まし合いながら活動しています。

――そういう面ではチームビルディングとかチーム、仲間って坂井さんを構成するキーワードとしてありますよね。

そうですね、やっぱり仕事というのは、一人では難しいと思いますし、保険業は一人のイメージもあるかと思うんですけども、自分はそうじゃないと思います。支え合い、励まし合いながらチームで活動する、ある種スポーツに通じるものがあるんじゃないかなと思っています。それぞれみんなの短所はみんなの長所で埋めていく、そんなチームを作っていきたいです。

――それを実践されているのはすごいですよね。

いやいや、まだこれからです。
でもその結果、1、2年目では社長賞をいただいて、3、4年目では保険業界での世界の上位7%の優績者として、生命保険・金融プロフェッショナルの証明でもある、MDRTバッジも貰うことができました。それで、5年目で今このメットライフ高崎の所長になりました。

――輝いてますねえ!坂井さんからはすごく強い意志を感じます。

そうですね、ぱっと見優しそうと言われるんですけど、意外と負けず嫌いです(笑)。

――勝つまでやめないといいますか(笑)。

やめない。それくらいでないとかな、とも思いますね。

――今、メンバーを増やすためにメットライフの良さを伝えて営業マンの方をスカウトされている状況とお聞きしたのですが、今後どれぐらいまで増やしたいですか?

あと5年でもう20人増やして30人以上のメンバーにして、その後、独立したオフィスを構えたいと考えています。群馬県教員の方の保険を預かる専門チームだよね、群馬の保険といえばメットライフだよね、と言われるようなオフィスを作って、最終的には群馬県全体の、金融知識の向上を図りたいと思っています。

今に活きるチームメソッドの源流

――坂井さんは幼少期や学生時代、どんな人だったんですか?学校の先生に影響を受けた部分があると伺いました。

そうですね、小学校時代はインドア派で、テレビゲームにハマっている子供でした。
今も繋がりがある、中学校の3年間を担任してくださった先生が、自分の人間形成に非常に影響を与えてくれた方でした。
その先生は国語の教科の方だったんですけれども、言語化・話し方の土台を教えてくれて、その結果、読書感想コンクールでは群馬県で佳作の賞を頂くこともできました。当時自分の中学校にサッカー部はなかったのですが、その先生がサッカー好きで、先生中心にクラブを作られて、そこでも色々指導いただきました。体力面の強化ですとか、チームワークですとか、人との関わり方も多く学ぶことができました。

――坂井さんは体格もしっかりされていますけど、色々スポーツをやられていたんですか?

そうですね。学生時代と社会人になってからも野球をしていました。スポーツ趣味なのでサッカーやフットサルも好きで、その後はバトミントンとかしてました。

――ずっとスポーツを続けてらっしゃるんですね。ご自身にとって、スポーツとはどんなものなんですか?

そうですね。スポーツはやっぱり心身を鍛える面もありますし、仲間の大事さですとか、コミュニケーションを作るのに非常にいいものです。スポーツを通じて人が育つっていいなと思います。

――人が育つ…確かに、スポーツを通して得られるものは多いですよね。

はい。それから、スポーツというと競技のイメージになると思いますけれども、スポーツにはプレイ、遊ぶという面もあります。野球でも「プレイボール」と言って始まりますよね。遊ぶっていう気持ちはやっぱり大事ですし、競技になったとしても楽しさは忘れちゃいけないなと思います。特に一流の人ほど楽しんでスポーツしていると思うんです。

――一流の人は楽しんでいる…すごくいい言葉ですね。

野球で一流っていうテーマだったら、やはり大谷選手。メジャーリーガーですけども、超一流のスーパースターの選手ほど遊びというのを忘れていないのかなと思います。

――坂井さんは、お仕事もスポーツも楽しまれているんですね。

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